代表プロフィール

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バリアバリューから新しい社会をデザインします。代表取締役社長 垣内俊哉

ミライロでは、「バリアバリュー」という理念を掲げています。 バリア(障害)をバリュー(価値)に変えていこうという思いを表しています。私の夢は「歩く」ことでした。しかし、足で歩くという夢は叶いませんでした。 これからも、私は死ぬまで歩きたいと思い、願い続けることでしょう。歩くという夢への路が途絶え、私は、「歩けなくてもできること」を探し続けてきました。
しかし、106センチの視点だから気づけること、車いすの私だから伝えられることがありました。 私は、歩けないからできることを、見つけることができました。人には誰しも苦手なことがある。人には誰しも辛い過去がある。人には誰しもコンプレックスがある。
一見すべてはネガティブなものに見えますが、それらはすべて価値になります。 人それぞれが持つ経験や視点、感性は、それが必ず強みになるのです。日本は、他国に類を見ない速度で高齢化が進んでいます。高齢化先進国の日本だからこそ、日本はユニバーサルデザインにおいても先進国であらなければいけません。
モノづくりが日本の誇りであるように、これからは日本のユニバーサルデザインが世界のお手本になる時代です。ユニバーサルデザインは、すべての人にとって使いやすい、見やすい、心地よい、そんなモノやサービスのあり方です。ミライロでは、建物や製品、サービス、コミュニーケーション、情報のあり方をデザインしています。バリアバリューの視点から、私たちは新しい日本を、世界をデザインしていきます。

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プロフィール

代表取締役社長 垣内俊哉

出身 岐阜県中津川市(1989年4月14日生)
経歴 2006年 岐阜県立中津高等学校 中退
2009年 民野剛郎とValue Added Networkを創業
2010年 株式会社ミライロを設立
2012年 立命館大学 経営学部 経営学科 卒業
2013年 一般社団法人日本ユニバーサルマナー協会代表理事(リンク)
2015年 日本財団パラリンピックサポートセンター 顧問 就任
2016年 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会
    アドバイザー 就任
受賞歴 岐阜県発明くふう展 中部経済産業局長賞
第63回 全日本学生児童発明くふう展 特許庁長官賞
The 2nd International Exhibition for Young Inventors 出展
第11回 キャンパス・ベンチャー・グランプリ大阪 ビジネス大賞
第6回 キャンパス・ベンチャー・グランプリ全国 審査委員会特別賞
大阪市 CB・CSOアワード2011 グランプリ
京都ベンチャークラブ 京都クラブ賞
日本中央ベンチャーリジョン 日本中央リジョン賞
国際ソロプチミストアメリカ 連盟賞 第2位
近畿地区人間力大賞 グランプリ
みんなの夢AWARD3 グランプリ

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ライフストーリー 誕生〜小学校

魔法にかけられて

2歳8ヶ月、初めてのつかまり立ち

写真、幼少時代
1989年4月14日、愛知県安城市に生まれました。
その後、父の生まれ故郷である岐阜県中津川市に移り、幼少期を過ごしました。生後1ヶ月の検診時、医師に足を診てもらうと、急に私は泣き始め、家に帰っても泣き続けたそうです。その後、何件か病院を回って、ようやく「骨形成不全症」という魔法にかけられていることが判明しました。骨形成不全症とは、簡単に説明すると骨が弱く折れやすいという病気です。
私が、初めて歩いたのは3歳になった頃でした。初めて歩いた日、母親はうれしくて涙が止まらなかったといいます。

あるきたい いつかみんなと はしりたい

これは、私が幼稚園に入って書いた詩です。幼稚園の卒園アルバムを見ると、サッカーをしたり、運動会で走ったり、活発に動きまわっている私の姿が写っています。「あれもやりたい、これもやりたい、できることは全部やる!」そんな思いに満ち溢れていた幼少期でした。

骨折という悪魔

小学生3年生、泥だらけの運動会

小学校は、楽しいイベントが目白押しで、毎日が本当に楽しかったことを覚えています。しかしながら、運動会、クラス合宿、マラソン大会、なにか楽しみにしている行事の前になると、私は決まって骨折して、手術や入院を繰り返し、涙を飲んでいました。「ケガ→入院→手術」を繰り返し、私はケガをするのが怖くなり、歩くことを敬遠し、車椅子に乗る機会が増えてきました。
そんな中でも、小学校最後の運動会のことは今でも強く記憶に残っています。私の通った小学校では、上級生が北海道の民謡であるソーラン節を踊るのが定番で、私は太鼓を叩くことになっていました。しかし、運動会直前にまた足を骨折。それでも諦めきれなかった私は、ギプスという包帯を巻きながら、「ケガなんかに負けない!」と力強く太鼓を叩きました。

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中学校~高校

新たな自分を発見した日

中学1年生、クラスの文集にて

小学校を卒業して、私は小学校に隣接する市立中学校に入学しました。この頃、私はケガが重なったことで、筋力が著しく低下しており、いよいよ車椅子に頼り切りの生活になっていました。
中学校に入って数ヶ月、私の人生の岐路ともいえる事件が起きました。ある日、私と友達が掃除をサボって遊んでいることがクラスの問題になりました。しかし、「とし君は障害者だから、給食の当番や、そうじはできなくて仕方ない」と、私は障害を持っていることを理由にサボったことが免罪となったのです。クラスメイトに「障害者」と呼ばれ、私は初めて自分が障害者であることを意識しました。私の中学は小学校からエスカレータ方式で、全員が顔なじみでした。でも、この日を境に健常者と障害者という大きな壁が教室の中にあるような切迫感が生まれたのでした。

涙の後はやっぱり歩きたい

中学3年生、野球部の県大会

それでも、中学校は、小学校と比べるとさらに毎日が充実していました。天気がよくても悪くても車椅子で通学し、部活動は野球部に入ったりと、できることを自分なりに楽しんでいました。
中学3年生になると、修学旅行が目前となり、私は人一倍ワクワクしていました。旅行先は、1日目は広島の市内観光、2日目はある離島でマリンスポーツをするという日程。しかし、バリアフリーとは縁遠い離島での生活は、私にとって困難なものでした。結局、2日目の朝、私はホテルの出口からみんなのバスを見送りました。帽子を目深に被り、溢れる涙を必死で隠し、みんなに手を振ったことを今でも鮮明に覚えています。
「絶対に歩けるようになろう。」と自分に誓い、私はひとりで帰路に就きました。

自分を否定した日々

中学を卒業して、私は市内の公立高校に入学しました。 私の高校は、4階建で授業の移動が頻繁にありました。それに加え、自分のクラスの教室が2階にあって、毎日階段の昇り降りが必要でした。その都度、車椅子 を誰かに運んでもらう必要があって、それを誰かに頼むことで「めんどくさいと思われるのではないか」と抵抗を持っていました。小・中学校と9年間も一緒にいた友達と離れことで、高校は私にとって、とても居心地の悪いものだったのです。
常に誰かの顔色を伺い、誰かの手を借りなければいけない生活に嫌気がさし、歩けない自分が、車椅子に乗っている自分がとても弱く惨めな人間に見えていたのです。

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闘病~大学受験

1年目で高校を休学

16歳から書き続けた日記

自己嫌悪の毎日に疲れ、高校に入って半年たらずで、私は高校を休学する決意を固めていました。「歩けるようになれば、この現状を変えられる」と信じ、治療sやリハビリに時間を使おうと考えたのです。今考えれば、中学校から募り募っていた「歩きたい」という思いが爆発したのだと思います。
歩くためにはどうしたらいいのかを考え、専門医の診察を受けたり、リハビリ施設を調べることに半年くらいの時間を使いました。そして、退学に猛反対する親や先生と何度も話し合い、1年生を終えた時点で高校を休学し、大阪で専門医の治療を受けることに決めました。

単身大阪へ

病院でのリハビリ風景

高校の1年間を終え、大阪で闘病生活が始まりました。手術は無事終わったものの、その後の経過は決して望ましいものではなく、身動きの取れない寝たきりの 生活が始まりました。そんな生活の中で自分自信と向き合い、弱さと向かう強さを知って、「将来はもっとでっかい男になろう。誰にもできないでっかいことをしよう。」と、漠然とした大きな夢を胸に抱くようになりました。
3ヶ月に及ぶ寝たきりの生活を終えた後、歩くという目標に近づくため、朝から晩までリハビリの生活を送りました。2007年1月、私は10ヶ月に及ぶ闘病生活を終え、故郷の中津川に戻りました。
この闘病生活で、結局、私は歩けるようになったわけではありません。しかし、この10ヶ月は、本当に実りある時間であったと思っています。自分で決断して、行動して、善し悪しは別としてひとつの結果を残したのですから。

偏差値33からの一発逆転

高校を休学して2ヶ月、高校のきまりである欠席日数を超過したことにより留年が決まり、友達と一緒に高校を卒業できないことになりました。私は、現役進学 にこだわり、いよいよ高校を退学しました。高校卒業と同等と認められる高卒認定(旧大検)という資格を取得し、大学進学を目指したのです。闘病生活の時に 漠然と描いた「起業」という目標に近づくため、大学ではITか経営を学ぼうと決め、偏差値33からの逆転を目指しました。
毎日、自宅から電車で1時間程の名古屋にある予備校に通い、1年間の猛勉強の末、遂に運命の入試シーズンを迎えました。ところが、入試2週間前に車椅子で 転倒し、足の骨を折って入院するという悲劇に見舞われることに…「なんとかなる!」という合言葉を胸に、試験の日には、病院から救急車のような車で試験会場に向い、試験本番は寝たきりで解答用紙と向き合いました(笑)。

みんなで勝ち得た結果

看護師さんたちからもらった寄せ書き

最悪のコンディションで挑んだ大学受験は、奇跡的に実を結び、私は立命館大学の経営学部に合格しました。病室で合格通知を確認したときは、喜びのあまりナースコールを押して、病棟の看護師さんたちを呼び寄せていました。病棟全体がお祝いムードになって、みんなに祝福してもらったことを、私は一生忘れないでしょう。
毎日毎日、電話で勉強を教えてくれた予備校の先生がいました。メールや電話で応援し続けてくれた地元の友達がいました。勉強しやすいようにと専用の机を 作ってくれたり、スポットライトを買ってきてくれたり、看護を通り越したサポートをしてくれた看護師さんたちがいました。そして、なによりも家族の力が一番大きな支えとなりました。
高校を中退して、確証のない不安な日々を過ごしましたが、周りのみんなの力のおかげで一つの結果を勝ち得ることができたのです。

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大学~ミライロ誕生

ビジネスを志し

初めての仕事、初めてのマイデスク

大学では、経営学部の中のアントレプレナー(起業家育成)コースで学ぶことにしました。自由に選べる大学の講義や初めての一人暮らしは、楽しくて仕方ありませんでした。大学入学から1ヶ月後、座っているだけの勉強では経営者にはなれないと考え、某ITベンチャー企業に「修行がしたい!」と飛び込んで、人生 初の仕事をさせてもらいました。中学生の頃、アフィリエイトと呼ばれる成功報酬型広告が個人でも流行していて、私は中学から高校までいくつかのホームページやブログを制作していました。結局、アフィリエイトでは、月に2,3万円の収入にしかなりませんでしたが、この頃の経験が生きて、この企業ではホーム ページ制作のお仕事をやらせてもらいました。その1年後、別の企業でもインターンをさせてもらい、主に営業の仕事を経験しました。また仕事に対する考え方 から自分との向き合い方など、多くのことを学びました。

アイディアをビジネスに

CVG大阪の授賞式にて

昨年の5月、大学で知り合った民野剛郎と「大きなことをしよう!」と、2人でビジネスアイディアを持ち寄り、ミライロの前身となるValue Added Networkという団体を立ち上げました。毎日毎日、あーでもない、こーでもないと夜遅くまでビジネスアイディアを考え、そして、それらを実行してきま したが、どれも目先の利益にとらわれたもので、長続きはしませんでした。
そして、立命館大学でバリアフリーマップ制作に携わった経験を生かし、これらの取り組みを全国の大学に広めるべく、マップ制作やバリアフリーに関する情報 発信に関する事業を考案しました。これらが多くのビジネスコンテストで評価され、多くの方々の前でお話させて頂く機会が増えたことで、より多くの方々に障害者やお年寄りがなにに困っていて、なにを求めているのかを理解して頂く機会に繋がりました。また、私たちのビジョンに賛同し、私たちを応援してくれる方や事業に協力して頂ける方も増えていきました。これらの経験から事業を考え実行する難しさを知り、そして、それ以上に多くの方々に支えられていることを実感しました。

時間の大切さに気づく

新たな決意を胸に

VANの活動が充実してきたある日、あることがきっかけで、自分に残された時間、自分になにができるかを自問することがありました。そして、自分のためだけに自分の時間を使うのではなく、誰かのためにも自分の時間を使おうという考えにたどり着きました。そのためにも、私にできることを世界に広げ、それを通して社会に貢献していこうと、株式会社ミライロの設立を決めました。

syuppan

垣内の半生&バリアバリューについて綴った著書が発売中!

 

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