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垣内俊哉

生まれつき骨が弱く折れやすい病気のため、私は幼少期から車いすに乗って過ごしました。私の夢は「歩くこと」でした。

足で歩くことができないと知った日、私は絶望しました。それから、多くの人の支えを受け「歩けなくてもできること」を探し、その道を進む中で「歩けないからできること」を見つけました。

車いすに乗っている私の目線の高さは106cmです。この高さだからこそ、気づけること、伝えられることがあります。

人には誰しも、弱みやコンプレックスがあります。ネガティブに見えることも、視点を変えればそれらは強みに、そして、価値へと変えていけます。

日本は他国に類を見ない速度で高齢化が進んでいます。高齢化先進国の日本だからこそ、ユニバーサルデザインにおいても先進国にしたいと私たちは考えています。

建物や製品、サービス、コミュニケーション、情報のあり方など、それらをより便利で快適なものへと変えていくことが、弊社の使命です。障害を価値に変え、私たちは社会を、世界を、革新していきます。

株式会社ミライロ 垣内俊哉

PROFILEプロフィール

経歴

2009年
民野剛郎とValue Added Networkを創業
2010年
株式会社ミライロを設立
2012年
立命館大学経営学部経営学科 卒業
2013年
一般社団法人日本ユニバーサルマナー協会 代表理事 就任
2015年
公益財団法人 日本財団パラスポーツサポートセンター 顧問 就任
2016年
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 アドバイザー 就任
2019年
立命館大学総合心理学部 訪問教員 就任
龍谷大学 客員教授 就任
2020年
上智大学 非常勤講師 就任
2022年
公益財団法人日本生産性本部 令和国民会議 第3部会「国土構想」 会員 就任
国家戦略特別区域諮問会議  有識者議員 就任

受賞歴

  • 全日本学生児童発明くふう展 特許庁長官賞 受賞
  • The 2nd International Exhibition for Young Inventors 出展
  • キャンパス・ベンチャー・グランプリ全国 審査委員会特別賞 受賞
  • 大阪市 CB・CSOアワード2011 グランプリ 受賞
  • 日本青年会議所 近畿地区人間力大賞 グランプリ 受賞
  • ニッポン放送 みんなの夢AWARD3 グランプリ 受賞
  • 日経ビジネス THE 100 日本の主役 選出
  • 経済産業省 ダイバーシティ経営企業100選 選出
  • 国際パフォーマンス学会 ベストパフォーマー賞 受賞
  • Japan Venture Awards 2018 経済産業大臣賞 受賞
  • 関西財界セミナー賞 2018 特別賞 受賞
  • KAIKA Awards 2019 KAIKA賞 受賞
  • 財界・経営者賞 受賞
  • 経済界・金の卵発掘プロジェクト2021グランプリ 受賞

LIFE STORYライフストーリー

誕生〜小学校

魔法にかけられて

1989年4月14日、愛知県安城市に生まれました。その後、父の故郷である岐阜県中津川市に移り、幼少期を過ごしました。生後1ヶ月の検診時、医師に足を診てもらうと、急に私は泣き始め、家に帰っても泣き続けたそうです。その後、何件か病院を回って、ようやく「骨形成不全症」という魔法にかけられていることが判明しました。骨形成不全症とは、簡単に説明すると骨が弱く折れやすいという病気です。

私が初めて歩いたのは3歳になった頃でした。初めて歩いた日、母親はうれしくて涙が止まらなかったといいます。

あるきたい いつかみんなと はしりたい

これは、私が幼稚園に入って書いた詩です。幼稚園の卒園アルバムを見ると、サッカーをしたり、運動会で走ったり、活発に動きまわっている私の姿が写っています。「あれもやりたい、これもやりたい、できることは全部やる!」そんな思いに満ち溢れていた幼少期でした。

2歳8ヶ月、初めてのつかまり立ち

2歳8ヶ月、初めてのつかまり立ち

骨折という悪魔

小学校は、楽しいイベントが目白押しで、毎日が本当に楽しかったことを覚えています。でも、運動会、クラス合宿、マラソン大会、なにか楽しみにしている行事の前になると、私は決まって骨折して、手術や入院を繰り返し、涙を飲みました。いつしか、私はケガが怖くなり、歩くことを敬遠し、車いすに乗る機会が増えていきました。

そんな中でも、小学校最後の運動会は今でも強く記憶に残っています。私の通った小学校では、上級生が北海道の民謡であるソーラン節を踊るのが定番で、私は太鼓を叩くことになっていました。しかし、運動会直前にまた足を骨折。それでも諦められなかった私は、ギプスという包帯を巻きながら、「ケガに負けない!」と力強く太鼓を叩きました。

小学生3年生、泥だらけの運動会

小学生3年生、泥だらけの運動会

中学校~高校

新たな自分を発見した日

小学校を卒業した私は、隣接する市立中学校へ入学しました。この頃、ケガが重なったことで、筋力が著しく低下しており、いよいよ車いすに頼りきりの生活になっていました。

中学校に入って数ヶ月、私の人生の岐路ともいえる事件が起きました。ある日、私と友人が掃除をサボって遊んでいることがクラスの問題になりました。しかし、「とし君は障害者だから、給食の当番や掃除ができなくても仕方ない」と免罪になったのです。クラスメイトに「障害者」と呼ばれ、私は初めて障害者であることを認識しました。この日を境にして、健常者と障害者という大きな壁が教室に生まれたのです。

中学1年生、クラスの文集にて

中学1年生、クラスの文集にて

涙の後はやっぱり歩きたい

それでも中学校は、小学校と比べると毎日が充実していました。天気が良くても悪くても車いすで通学し、部活動は野球部に入ったりと、できることを自分なりに楽しんでいました。

中学3年生になると修学旅行が目前となり、私は人一倍ワクワクしていました。1日目は広島の市内観光、2日目は離島でマリンスポーツをするという日程。しかし、バリアフリーとは縁遠い離島への旅行は、私にとって困難なものでした。結局、2日目の朝、私はホテルの出口からバスを見送りました。帽子を目深に被り、溢れる涙を必死で隠し、クラスメイトに手を振ったことを今でも鮮明に覚えています。

「絶対に歩けるようになろう。」と心に誓い、私はひとり、帰路につきました。

中学3年生、野球部の県大会

中学3年生、野球部の県大会

自身を否定し続けた日々

中学卒業後、私は市内の公立高校に通いました。私の高校は4階建てで授業間の教室移動が頻繁にありました。その都度、車いすを誰かに運んでもらう必要があり、それを誰かに頼むことで「めんどくさいと思われるのではないか」と抵抗を持っていました。小・中学校と9年間も共に過ごした友人と離れたことで、私にとって新たな環境はとても居心地の悪いものだったのです。常に周囲の顔色を伺い、誰かの手を借りなければいけない生活に嫌気がさし、歩けない自分が、車いすに乗っている自分が、とても弱く惨めな人間に見えるようになりました。

闘病~大学受験

1年で高校を休学

高校に入って半年たらずで、私は退学する決意を固めていました。「歩けるようになれば、この現状を変えられる」と信じ、治療やリハビリに時間を使おうと考えたのです。今考えれば、中学生の頃から募り続けていた「歩きたい」という気持ちが爆発したのだと思います。

歩くためにはどうしたらいいかを考え、専門医の診察を受けたり、リハビリ施設を調べ、新たな道へに踏み出す準備を進めました。それから、退学に猛反対する先生や両親と何度も話し合い、1年生を終えた時点で高校を休学し、大阪で治療を受けることになりました。

16歳から書き続けた日記

16歳から書き続けた日記

単身大阪へ

親元を離れ、大阪での闘病生活が始まりました。手術は無事終わったものの、経過は決して望ましいものではなく、3ヶ月もの間、寝たきりの生活を送りました。それから、足で歩くという夢の実現に近づくため、朝から晩までリハビリを続けましたが、結局、歩けるようにはなりませんでした。しかし、病室で過ごしたあの日々は、私にとって必要不可欠な時間であったと思っています。心の底から「やり切った」と思えたからこそ、晴れ晴れとした気持ちで病室を後にすることができたのです。

病院でのリハビリ風景

病院でのリハビリ風景

偏差値33からの奮闘

高校の規定である欠席日数を超過したことにより、私は留年となりました。現役進学にこだわり、いよいよ高校を退学し、高卒認定(旧大検)という資格を取得し、大学進学を目指しました。病室で描いた夢を実現するため、ITと経営を学ぼうと定め、偏差値33からの逆転を目指しました。毎日、電車で1時間ほどかかる名古屋の予備校へ通い、1年間の猛勉強の末、運命の入試を迎えました。ところが、試験2週間前に車いすで転倒し、足の骨を折って入院するという悲劇に見舞われることに…。「なんとかなる!」と言い聞かせ、試験の日には、病院から民間の救急車で試験会場へ向い、寝たきりの状態で解答用紙と向き合いました。

自分の意思で歩く

最悪のコンディションで挑んだ大学受験は、奇跡的に実を結びました。病室で合格通知を確認したとき、喜びのあまりナースコールを押して、病棟の看護師さんたちに報告しました。病棟全体で歓声が上がり、お祭り騒ぎになりました。あの日のことを、私は一生忘れないでしょう。

毎日、電話で勉強を教えてくれた予備校の先生がいました。メールで応援し続けてくれた地元の友人がいました。ベッドの上で勉強しやすいようにと机を作ったり、スポットライトを買ってきたり、看護を越えたサポートをしてくれた看護師さんたちがいました。

「自分の足で歩く」という夢は叶いませんでした。それでも、確かに自分の人生を、「自分の意志で歩いている」実感を得ることができたのです。

看護師さんたちからの寄せ書き

看護師さんたちからの寄せ書き

大学~ミライロ設立

ビジネスを志し

大学入学から1ヶ月後、座学だけでは経営者になれないと考え、あるITベンチャー企業へ「修行をさせて欲しい!」と飛び込みました。そこで任せられたのは営業でした。車いすで足を運べる件数は限られます。でも、数ヶ月経った頃、その会社で一番の成果を上げていました。理由はシンプルです。車いすの営業が物珍しく、多くの人に覚えてもらい、多くの機会を得ることができたのです。

当時の上司に投げかけられた言葉が私を大きく変えました。「歩けないことに胸を張れ。結果に繋がっているなら、それは営業にとって強みだ。障害があることに誇りを持て」。この日の夜、涙が止まらなかったことを覚えています。

初めての仕事、初めてのデスク

初めての仕事、初めてのデスク

アイデアをビジネスに

大学2回生のとき、クラスメイトの民野剛郎と2人でビジネスアイデアを持ち寄り、ミライロの前身となるValueAddedNetworkという団体を立ち上げました。毎日、「あーでもない、こーでもない」と夜遅くまでビジネスアイデアを練り、それらを実行するも、どれも目先の利益にとらわれたもので、長続きはしませんでした。行き詰まったとき、自身が大学進学の学校選びで苦労したことを基に、バリアフリーマップに関する事業を考案しました。これが多くのビジネスコンテストで評価され、私たちを応援してくれる方、事業に協力してくれる方が増えていきました。

バリアをバリューへ

ビジネスコンテストに片っ端から参加し、1年間であわせて13の賞を受賞しました。それらで得た賞金を元手に、大学3回生のとき、株式会社ミライロを設立しました。社名の由来は、自由に描ける「未来の色」と自由に歩める「未来の路」を増やしたいという想いからくるものです。

歩きたいと願い続けた日々、歩けなくてもできることを探した日々は、辛く苦しいものでしたが、かけがえのない時間でした。あの日々があったからこそ、新たな道が拓かれたのだと思います。「歩けないからできること」、「障害があるからできること」を探す日々が始まりました。

ビジネスコンテストでの初受賞

ビジネスコンテストでの初受賞

ミライロの創業期

忘れられない初受注

バリアフリーマップの営業のため、大学を中心に教育機関へ電話をかけ続けました。幸いにも、「バリアフリー」という言葉のイメージが良いためか、電話を無下に切られることはそれほどありませんでした。しかし、「担当者に伝えておきます」とやんわりと断られることが続きました。用意していた資金はすぐに底をつき、副社長の民野は日々の営業に追われながら、コンビニで深夜のバイトを始めました。私はひたすら、営業や講演で駆けずり回りました。ある日、民野から電話がかかってきて、「滋賀県立大の仕事が決まったぞ!」と興奮しながら報告をしてくれました。私が滋賀県立大学さんに足を運んだとき、担当の方はあまり関心のなさそうな様子でしたが、その方から「ミライロさんにお願いしたい」と連絡があったというので、なおさら嬉しく感じました。これが私たちの栄えある初受注でした。

滋賀県立大学でのバリアフリー調査

滋賀県立大学でのバリアフリー調査

「社会貢献」より「儲けよう」

滋賀県立大学さんの次に決まった仕事は龍谷大学さんでした。「社会貢献」だけでなく「儲けよう」。当時、龍谷大学の社会学部長であった村井教授からいただいた一言が、とても嬉しく、また大きな励みとなりました。ミライロを立ち上げる前、多くの方から「助成金を取りやすいNPO法人でやったほうがいい」とアドバイスされました。そうした声に耳を傾けながらも、社会性と経済性の両輪で事業を走らせなければ長続きしないと考え、株式会社を選びました。設立3年目にあるビジネスコンテストで優勝した時も、賞金2,000万円は受け取りませんでした。事業と関係のないところで大金を得てバランスを崩すよりも、会社と人の成長につながる形にしたいと思ったのです。

ユニバーサルマナーの普及

バリアフリーマップの制作やコンサルティングに加えて、研修事業をスタートしました。障害者や高齢者へのサポート方法に関する知識や技術、当事者の心理までを詳しくレクチャーするという事業です。日本社会における文化にしようという願いを込めて、「ユニバーサルマナー」と名付けました。社会において障害者や高齢者への対応は、無関心か過剰のどちらかです。見て見ぬ振りをするか、時にお節介と捉えられる配慮をしているかといった具合です。予算やスペースの都合で環境(ハード)を変えることが難しい場合も、スタッフの対応方法など意識(ソフト)を変えるだけで、多くの問題を解決できます。「ハードは変えられなくても、ハートは変えられる」をコンセプトとし、ユニバーサルマナーは法人だけでなく、個人の方へも波及していきました。
ユニバーサルマナー検定の詳細はこちら

ユニバーサルマナーの実技研修

ユニバーサルマナーの実技研修

新たな未来に向けて

世界へバリアバリューを

環境、意識、情報のバリアを解消することが必要と伝えています。バリアフリーのコンサルティング、ユニバーサルマナーの教育研修により、環境と意識に対する取り組みは普及しつつありました。それでは、情報のバリアとはなにか。街のバリアフリーがどうなっているか、行きたいお店が車いすで入れるか、希望する学校や会社がどのような対応がされているか。それらがわからない、明らかになっていない、その現状を解消すべく、Bmapsというアプリケーションを開発しました。バリアフリー情報を収集し、発信するサービスです。

海外でも注目され、開発してから1年の間で多くの国へ足を運ぶ機会を得ました。ある国で講演をした時です。14時間もかけて会場に駆けつけてくれた障害のある方がいました。また、「スーツを来た車いすのあなたが、今ここにいることに希望を持った」と伝えてくれた親御さんがいました。いつの日か、ミライロが掲げるバリアバリューを、ミライロが取り組むビジネスを世界へ広げたい。多くの出会いから、私は新たな使命を授けて貰ったように思います。

エクアドルで行った講演会

エクアドルで行った講演会

病室支店への異動

2013年に大きな手術を受けた影響で心肺停止になったことから、私は自身の身体と向き合うことを避けるようになっていました。しかし、2016年の春、私の足は限界を迎えつつありました。大腿骨が骨折しているような状態で、くっつかずにグラグラと動いている状態。これを偽関節と言います。手術を受けたからといって治る確証もなく、私は痛みを我慢することでやり過ごすつもりでした。それを民野へ伝えたところ、「先は長い。これからのためにも、今は身体と向き合って欲しい。会社のことは任せてくれ」。そう背中を押され、私は手術を受ける決断をしました。入院する直前、社員の皆から辞令をもらったのですが、それも大きな心の支えでした。術後の経過は思わしくなく、闘病生活は半年以上に及ぶ過酷なものでした。快癒する見通しが立たず泣く泣く退院し、痛みを堪えながら仕事に復帰しました。不思議なもので、それから数ヶ月経った頃、完治したことを主治医から告げられ、使命があれば身体も応えてくれるのだと涙したことを覚えています。

社員の皆からもらった辞令

社員の皆からもらった辞令

バリアバリューとDX

障害者手帳を提示する時、「すみません、障害者手帳あります…」と、枕詞が「すみません」に固定化されます。もし、「ポイントカードあります」といった具合に、気楽に伝えられるようになれば、心理的負担が軽減されるかもしれない。この想いを形にすべく、2019年7月に障害者手帳アプリ「ミライロID」をリリースするも、導入企業はたったの6社でした。最近では、SDGsの達成やDX(デジタルトランスフォーメーション)の推進という時流にマッチし、ミライロIDの導入企業は少しずつ増え3,000社を突破しました。多くの人の支えがあり、共感の輪が急速に広がっています。

数年前、障害者雇用の水増し問題が話題になりました。バリアフリーが進んでいる日本でも、大きな課題を残していることが明らかです。障害者雇用をもっと推進していかなければいけません。でも、「買い物へ行きたい」「食事へ行きたい」「旅行へ行きたい」。そう思い描ける社会でなければ、学ぶこと、働くことに、一生懸命になれるはずがありません。障害のある方が不安や不便に思っていることを一つでも多く解消し、かつての私がそうであったように、一歩前へと踏み出せる社会になるよう願っています。未来の色を自由に描けるよう、未来の路を自由に歩めるよう、これからも私は自身のバリアをバリューへと変えていきます。

ミライロIDに対応した窓口

ミライロIDに対応した窓口