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2017年12月13日

視覚障害のある私が、父と打ち解けるまでの話

原口淳

写真 家族5人・建物の前

講師の原口です。

先月、私が生まれ育った淡路島で初めて講演をさせていただきました。

地元での講演ということで、家族や親戚、近所の方など、小さい頃からお世話になった方々が足を運んでくれました。

その中に、父親の姿があり、私は少し驚きました。

小さい頃の私は、父親のことをとても遠い存在に感じていたからです。

今回はそんな父親とどのように距離を縮めたのかについてお伝えさせていただきます。

 

障害を受け入れる難しさ

生後間もなく、私の目が見えないことが分かりました。

言い表せないほどの悲しみの中で、必死に現実を受け入れ、私を他の兄弟と同じように育てようと最初に決意できたのは母親の方でした。

写真 幼少期の原口と兄弟

≪左から姉、妹、私≫

一方で父親は、私の障害を受け入れることに少し時間がかかっていました。

私が小さい頃は私と関わることをどこか避けていたようなところがあったように感じます。

小学生の頃、休日に父親と遊んだ記憶はほとんどありません。

父親は近所の少年サッカーチームの監督をしており、休みの度に練習に出かけていました。

私は遠くから他の子どもを指導する父親の声を聞き、そのたびにとても辛かったことを覚えています。

当時は、「自分は父親に愛されていない」と感じていましたし、自分から父親を奪ったサッカーにさえ、憎しみを覚えるようになってしまっていました。

 

父親と息子の距離が縮まっていく

中学生になり、私は淡路島から離れて県内の別の盲学校に転校しました。

平日は学校の寮で生活をしていましたが、週末になると淡路島の自宅に戻りました。

毎週の送り迎えは父親が担当してくれることも多く、親子2人で話す時間が必然的に増えていきました。

離れて暮らす1週間分の話をお互いに共有し合ううちに、父親の私への見方が少しずつ変わっていきました。

今までお互いがどこか遠い存在に感じていたからか、「2人で話す時間」がなかったのかもしれません。

しかし一方で私は、小さい頃に向き合ってくれなかった父親への不信感を拭えずにいたのです。

そんな状態で大学に進学した私は、ブラインドサッカーに出会いました。

ブラインドサッカーを始めた当初は、「自分から父親を奪ったサッカーを否定してやりたい」という思いを持ってプレイしていました。

しかし、プレイを続けるにつれ、競技の魅力にはまっていき、心から楽しいと思えるようになっていました。

写真 ブラインドサッカーをする原口

≪小学生とブラインドサッカーをする様子≫

ある時、実家の庭で私がボールを蹴っていると父親が現れて、練習のサポートをしてくれました。

そして練習の後に父親が「自分の夢は、息子と一緒にサッカーをすることだった」と嬉しそうに私に言ったのです。

その時私は初めて父親の葛藤に気づきました。

「息子とサッカーをしたい」という父親の夢。

生まれた子どもが男の子と知った父親の幸せな気持ち。

息子との未来を思い描いていた矢先に宣告された息子の障害と、素直に受け入れられない自分に対する気持ち。

父の素直な夢を初めて聞き、父の気持ちを初めてきちんと想像することができた私は、悩んでいたのは自分だけではなく、父親も同じだったことに気づき、素直に父親を受け入れることができたのです。

写真 原口と父

≪左から知人、私、父≫

まとめ

私自身、父親と分かり合えたことで「目が見えない自分」も家族の一員になれたと感じ、心が軽くなりました。

そんな中で私の家族は、家族でコミュニケーションを取り続けたこと、その機会をあえて作ったこと、共通の趣味や一緒にできる何かを見つけ出せたことが、共に「障害」を受け入れる最初の1歩になりました。

写真 家族5人・建物の前

≪左から姉、妹、母、私、父≫

子どもの障害や自分の障害を受け入れることは簡単ではないと思います。

しかし、少しの工夫や機会で目の前がぱーっと明るくなることもあるのではないでしょうか。

これからも私は、父親と「サッカー」という共通の趣味で親子関係を継続させていきたいと思います。


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