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1963年群馬県桐生市生まれ。1986年、上智大学文学部新聞学科を卒業後、株式会社フジテレビジョンにアナウンサーとして入社。ニュース、バラエティ、ナレーションなどを幅広く担当。現代美術に造詣が深く「テレビ美術館」などの美術番組を20年以上にわたり担当した。
自らが語る弱み(バリア)は「人とは違うことで、周囲に馴染めなかった」。逆手に取って語る強み(バリュー)は「目の前の人の、外見や心象の変化を感じ取りやすくなった」。
1989年に愛知県安城市で生まれ、岐阜県中津川市で育つ。生まれつき骨が脆く折れやすいため、車いすで生活を送る。自身の経験に基づくビジネスプランを考案し、国内で13の賞を獲得。障害を価値に変える「バリアバリュー」を提唱し、大学在学中に株式会社ミライロを設立した。高齢者や障害者など誰もが快適なユニバーサルデザインの事業を開始、障害のある当事者視点を取り入れた設計監修・製品開発・教育研修を提供する。
阿部さんがご活動を続けられる中で、報道の観点からLGBTの人への理解や向き合い方は変化していると思いますか?
変化していますよ。4年前、私がニューヨーク支局から帰ってきたばかりの頃は、ニュース番組でもLGBTという言葉は一般的ではなくて。必ず注釈がついていました。Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシュアル、Tはトランスジェンダー……という風に。
そうでした。今はいちいち注釈がつかないこともありますよね。
それだけ、LGBTについてたくさん報じられてきたと思います。長く活躍されているゲイの活動家の方にお話をうかがった時「フジテレビがレインボーパレードのニュースを扱うなんて信じられない!」と驚かれたものです。
なるほど!2015年、全国で初めて渋谷区が「同性パートナーシップ制度」導入した時は、特に報道で話題になりましたね。
そこからちょっとずつ、同性カップルが抱えている困難が知られるようになったと思います。同性カップルだと部屋が借りられない、病院でパートナーの大事なときに立ち会えない、とか……。
「トランスジェンダーの子どもが男女別の制服を押しつけられて苦しんでいる」というニュースもありましたね。
テレビでは、昔から女装家の方や、ゲイの方が、タレントとして出演することは、よくありました。タレントではない方が、表にでて発言する機会がこれまではあまり無く、身近な問題として捉えづらかったんだと思います。
SNSやブログなどで拡散しやすい時代にもなりましたからね。阿部さんが、LGBTについて詳しく知ったきっかけは、なんですか?
東京レインボープライドの共同代表理事・杉山文野さんと知り合ったからです。15年くらい前に原宿の中華料理店のカウンターで、偶然隣になって。まだ彼は大学院生だったんじゃないかな。
すごい偶然ですね!
もともと、仕事で関わるスタイリストさんやヘアメイクさんに、ゲイの人が多かったという阿部さん。LGBTの人と関わることに、特別感はなかったそうです。しかし、杉山さんとの出会いがきっかけで、LGBTに関連するイベントの司会や取材を多く務められるようになりました。
LGBT当事者に限らず、東京パラリンピックがきっかけで、番組やCMでパラリンピアンの方々がよく登場するようになりましたよね。
そうですね。1年前ということもあって、盛り上がっていると思います。
東京2020が決まったとき、スタッフから「義足のアップって撮って良いのかな?」って相談されました。私は「本人に聞けばよいのでは。それは義足ではない方と一緒ですよね」と言いました。確かに、義足の方とふれあったことが無いと迷うのかな……と思いました。
迷う人は多そうですね。メディアに出る障害のある人や、LGBTの人が増えれば、それだけ皆が目にする・関わる機会が増えて、社会全体の経験値が上がっていくんだと思います。
そうですね!多様な人々が訪れる2020年東京オリパラの後に起こる、社会の変化に期待しています。
フジテレビのニューヨーク支局での勤務を終え、帰国した阿部さんは、LGBTについて取り上げる番組を当事者であるスタッフと立ち上げました。ニューヨークで、阿部さんにはどのような学びや気づきがあったのでしょうか。
ニューヨークと言えば、ダイバーシティの象徴というか、多様性の街ですよね。ニューヨークで勤務されたことも、阿部さんにとっては大きかったのでしょうか?
はい!ニューヨークで暮らす人は、国籍も、人種も、宗教も、肌や髪の色も、すべてがバラバラです。一人として、同じ人はいない、というのを強く感じました。
全員、はっきりと違うんですね。
着ている服からして、日本とは全然違うんですよ。公園に行くと、冬なのにTシャツで走ってる人もいれば、夏なのにダウンの人もいます。
価値観だけではなく、体感温度まで違う、と。
大雪の日に、短パンでランニングしている人を見て、びっくりしました。日本だと、季節の変わり目って、何を着たら良いか迷いますよね?
迷います、迷います。
そういう迷いが一切、無いんです。
迷う理由って、「みんなは着ているかな?」「周りから浮かないかな?」という同調意識だったりもしますよね。
そう!でも、当たり前だけど、寒かったら着ればいいし、暑かったら脱げば良い。他人の目なんて気にせず、全部自分で決める!という。楽になりました。
LGBTの人については、どうでしたか?
たくさん出会いました。印象的なのは、同僚の子供が通っていた小学校です。子供を迎えに来る親は、シングルマザー、シングルファザー、両親二人ともパパなど、子供によってバラバラなんです。国籍や文化も違う生徒ばかりで、こういう環境で育つことができる子どもは羨ましいなと思いました。
東京に比べれば、ニューヨークは段差だらけでした!
日本は世界で一番バリアフリーが進んでいますからね。
本当にそう思います。でも、ニューヨークでは困っていたら、誰かが必ず声をかけてくれました。私なんて、何度助けられたことか。
どんなことがあったんですか?
とにかく、日本ではありえないことがいっぱい起きるんです。宅配便が来ない、インターネットが繋がらない、夜中に冷蔵庫が突然壊れる、どうしたらいいかわからない……。でも思い切って「助けて!」って言うと、誰かが助けてくれるんです。それに慣れてしまい、帰国しても、遠慮なく誰かを頼ったり、助けを求めたりすることができるようになりました。
なるほど。日本はスマートを意識しすぎていて、助けてと言えない人が多いかもしれません。頼るのが恥ずかしいとか、自分でギリギリまで抱え込むとか。
日本人が、街中で障害のある人が困っていることに気づいても、声をかけられないのは「手を貸すことで、困らせてしまったらどうしよう」と考えてしまうんでしょうね。
冷たいのではなく、遠慮しすぎているんだと思います。
私は、ニューヨークから帰ってきて、よりお節介になったかも。街でスマホを持ってキョロキョロしてる外国人を見たら、すぐに声をかけちゃいます。ちょっと英語を話せるところを、見せびらかしたいだけかもしれないけど。(笑)
困っている人を見かけても声をかけられない、という人へのアドバイスはありますか?
うーん、やっぱり慣れだと思います。私は「なるほど!ザ・ワールド」のロケで、ジャングルの奥地の部族に会いに行ったりしていました。英語ですら通じませんし、通訳もいませんでした。
それは……どうやって会話したんですか?
もう、必死ですよ!「水」「飲みたい」「お願い」って、ひとつひとつ、ジェスチャーで。(身体を大きく動かして、ジェスチャー)
すごい!(笑)
言葉が通じない人と、なんとかしてコミュニケーションを取らないと、生きていけませんでしたから。
通じなかったこともありますか?
ありますよ!声をかけて失敗したことも沢山あります。でも、失敗の方が糧になりました。
なるほど。空気を読みすぎても、一歩を踏み出せない。だから、失敗して、慣れていくしかないということですね。
そうです!私は思い切って、2020年東京オリパラのボランティアにも応募しました。ニューヨークでたくさん助けてもらったので、今度は私が日本で、外国の方々を助けたいですね。
手助けや失敗への阿部さんの考え方は、とてもポジティブに感じます。
あはは。私、本当はスーパーネガティブですよ!昔から根暗で、コンプレックスの塊みたいな人間です。アナウンサーとしても落ちこぼれだし。
えっ、あまり想像できないです。
まず小さい頃から、とても不器用でした。一番古い記憶が、幼稚園。厚紙を折って、筒を作って、切って、糊をつけて塔を作るという簡単な工作をしたんですけど。私のだけ、ぜんぜん塔が立たないんです。他はみーんなできているのに!
工作の他に、絵画も苦手で、何を描いたらいいかわからず途方に暮れたと言う阿部さん。運動神経にも自信がなく、かけっこはいつもビリ。中学校のバレーボール大会では、「あなたがいると勝てない」と言われ、仲間はずれにされたこともあったそうです。不器用で、皆が当たり前にできることができない自分が大嫌いだったと言います。
そんな阿部さんが、アナウンサーになろうと思ったきっかけはなんですか?
ラジオです。兄が聞いていたラジオの深夜放送を一緒にこっそり聞いて、自分の居場所を見つけた思いで。話す仕事に憧れました。
さっき言っていた、アナウンサーとして落ちこぼれって……?
私、入社2年目で担当するレギュラー番組がゼロの状態になったんです。他の同僚はみんな、ゴールデンのバラエティ番組で司会をしたり、帯(月曜から金曜まで)の情報番組でリポーターをしたりしていたのに。
なぜ、担当が無くなってしまったんでしょう?
たぶん、当時ブームだった女子アナのタイプと、正反対だったからじゃないかな……。服も、かわいいパステルカラーより、モノクロばっかり好んで着ていたし。夏休み、同僚たちはハワイやヨーロッパに旅行するなかで、私はインド一人旅。(笑)私がプロデューサーの立場でも、「(番組で)使いづらいな」「変わってるな」と思いますよ。
今は普通ですが、当時は浮いてしまったんですね。
でも、今考えると、辛い時にも「これは好き」と思ってやっていたことが、自分に返ってくることが多かったかもしれません。作るのは苦手な美術も見るのは好きで、レギュラーがなかった時に「テレビ美術館」という番組の担当になりました。20年以上続いたこの番組での経験と人脈が今も活きています。
辛い時にラジオを聞いていて、アナウンサーになったというのも、そうですね。
インド一人旅に行ったことを番組のプロデューサーが聞きつけて「なるほど!ザ・ワールド」の海外リポーターになれました。
辛い時こそ、布団にくるまるんじゃなくて、何かをするのが大切ということですね。
はい。でも、辛い時に何かしなくちゃ!と自分を奮い立たせるのはしんどいから、まずは夢中になれるものに取り組んでみるのが良いと思います。私、以前にオノヨーコさんのインタビューをしたことがあり、その時にいただいた言葉が今も印象に残っています。
最愛の夫を目の前で射殺された、オノヨーコさん。阿部さんは、あまりにも美しくかっこいいオノさんに「どうしたら、あなたのように素敵に年齢を重ねることができますか」と聞くと、オノさんは「絶望しないこと」と答えました。
「絶望しないこと」。今でもよく、噛みしめる言葉です。辛くても、絶望せず、夢中になれることを見つけられた幸運に、感謝しています。
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