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2024年04月10日

遠隔で働く手話通訳者として感じる、「ミライロ・コネクト」の可能性

ミライロ・コネクト

「耳が聞こえない方、聞こえづらい方」などの聴覚障害者が暮らしやすい社会を目指しミライロ・コネクト」では遠隔で働く手話通訳者を採用しています。行政や就労などの場面で、窓口に設置されたタブレットを通して、手話通訳を必要とする人たちをいつでもサポートできるような体制を築くためです。

そんな「ミライロ・コネクト」で働く手話通訳者のひとり、和氣ひとみさん。手話歴38年の和氣さんは「ミライロ・コネクト」にどんな可能性を感じているのか。率直な思いを伺います。

プロフィール

和氣ひとみさん(1966年生まれ、手話通訳士)
和氣さん2

地域のろう者との交流を通じて、手話を身につけていった


――手話と初めて出会った頃について教えてください。

和氣
私は、生まれも育ちも京都なんですが、何故だったのか、小さい頃、家に手話の本があったんです。京都府立聾学校の伊東雋祐先生が書かれたものでした。それを見ながら指文字をやってみたことを覚えています。私にとっての手話との出会いは、その時でしょうか。

その後、兵庫県にある大学に通うようになり、たまたま寄った書店で地域の手話サークルによる「手話講習会」のチラシを見つけました。1985年頃のことです。「行ってみたいな」と咄嗟に思い、会場へ向かいました。すると講習会は終了していて、サークルにおられたろうのご夫婦に、直接指導していただくことになりました。

――手話の勉強はいかがでしたか?

和氣
とにかく楽しかったです。手話で挨拶をしたり、ろう者同士が雑談するのを眺めたり……。ある時は、ろうの友人の成人式について行って、仲間と式の様子を通訳する、なんてこともありました。「手話通訳とは何か」を理解していない頃でしたが、それでも「伝える」ことが楽しくて、そのサークルには4年通いました。

――大学を卒業してすぐに手話を活かす仕事に就いたんですか?

和氣
いえ、卒業後は京都で養護学校の教員になりました。そこで重症心身障害児を担当する新米教師になったんです。登校することが難しい子どもたちのところに通って、ベッドサイドで授業をする。さまざまな障害のある子どもたちと出会い、表情でやり取りし、子どもたちから沢山エネルギーをもらって、やりがいを感じて仕事をしていました。施設の職員さんから「この子たちは社会を変える存在。時代の最先端をいってるんやで。」と言われた言葉を今も覚えています。

手話のことは忘れたわけではありません。むしろ、サークルでの楽しかった日々が忘れられず、今度は京都にある手話サークルに入りました。

――社会人になっても手話の傍にいらっしゃったんですね。

和氣
そうなんです。その頃の私にとって手話とは、仕事とは別の、いわゆる「ライフワーク」のような位置づけだったと思います。京都のサークルでも大学生の頃と同様に、ろう者の方々と一緒に過ごしながら手話を覚えていきました。当時、ろう者の老人ホームを建てるための運動が始まっていたんです。私もその運動に参加して、ろう者とペアになってカンパのお願いをして回ることもありました。あるいは、様々な行事に参加してろうの方たちと交流を楽しんでいました。そういう運動や行事の中でろう者との交流を深め、自然と手話を身につけていきましたね。

――「手話はライフワークだった」とのことですが、現在では「仕事」にされています。そこに至るまでの経緯も聞かせてください。

和氣
京都のサークルで楽しく活動していて、その後、結婚し、北海道に移り住みました。そこでももちろん手話サークルを探し、知り合ったろうのご夫婦と仲良くなって、暇を見つけてはお喋りをして過ごすような毎日で。そうこうしている時に、地域の手話通訳者の産休代替を探していることを知りました。それで3カ月だけ代わりに手話通訳者として働くことになったんです。1993年のことですね。

いろんなろう者に声をかけていただき、通訳をしながら北海道の手話も覚えていきました。用事を作り、わざわざ呼んでくださる方々もいて、私とお喋りしてくださるんです。今思うと、皆さんの優しさだったんだと思います。

――そういった日々の中で、自身の手話についても思うことはありましたか?

和氣
やはり、しっかり勉強しなければいけないと痛感する日々でした。手話通訳の現場は一つひとつ違いますし、正解がない。だけど非常に責任のある仕事です。だから、このままじゃだめだなと思って、手話通訳の養成講座に通い始めました。

――その流れで「手話通訳士」の資格試験にもチャレンジされたんですね。

和氣
そうですね。初めて試験を受けたのが2000年でした。でも、本当に難しくて……。何度も何度も落ちて、しかも試験を受けるためには東京に行かなければいけないわけです。飛行機代もかかってしまうし、落ちると非常に落ち込みました。

合格したのは2010年の時。正直、「これでだめだったらもう諦めよう」と思っていました。これはあまり関係ないお話かもしれませんが、その時の試験は東京ではなく大阪会場で受けたんです。実家に泊まって、ご飯を食べて、リラックスして受けたら自分らしく表現できるかなと思って。試験会場であちこちから関西弁が聞こえてきて、嬉しかったのを覚えています。

――合格したときはどんなお気持ちでしたか?

和氣
「やったー!」ってめちゃくちゃ嬉しかったです。ただ、合格したこと自体よりも、周りのろう者が喜んでくださったことが嬉しくて。サークルの方々も、それまで出会ってきたろう者も、みんなが喜んでくれたんです。「和氣さんは私たちが育てたんだ」と誇らしげに言う方もいて、ジーンとしました。

――その後、どういった経緯でミライロ・コネクトで働くようになったんでしょうか?

和氣
その後ご縁があって、ろうの子どもたちが通う放課後デイサービスの事業所で、保育士として働くようになりました。子どもたちだけではなくスタッフにもろうの方がおられて、子どもたちと手話で語り、遊びや生活を共にするとても学びの多い職場でした。子どもたちの小さな手から、手話が芽生える様子を目の当たりにして、手話の素晴らしさや大切さを実感する日々でした。本当に、いつまでも勤めたいと思う、とても楽しくやりがいのある仕事でした。ただ、そこは通うのに往復で冬だと2時間以上かかるんです。7年目を過ぎた頃、身体が悲鳴を上げてしまって、ずっと働くことはできない……と、辞めざるを得なくなりました。

ちょうどそんな時、ミライロで手話通訳者を募集していることを知りました。「出社必須」という条件だったんですが、自己紹介をしつつ「遠隔に住む手話通訳者でも、いつか働けるようになりますか?」と問い合わせてみたんです。すると、すぐにお返事をいただき、なんとリモートでも働けるポジションを用意してくださったんです。ありがたかったです。

和氣さん

ろう者の行動が制限されない社会を目指して


――現在、ミライロ・コネクトでどのように働いているのかも教えてください。

和氣
私が担当しているのは、行政や就労などのさまざまな場面で、遠隔から手話通訳を行う業務です。何人かの手話通訳者が待機していて、必要に応じて呼び出され、タブレットの画面を通じて通訳をするイメージですね。

――窓口にタブレットが常設してあって、ろう者がやって来たら和氣さんたちに連絡がくるということですよね。

和氣
まさにそういう形での対応です。正直、最初は「遠隔通訳なんて私にできるんだろうか」という不安があったのも事実です。もしも現場に手話通訳者がおられるのなら、その方にお任せした方が絶対に良い。ただ、現場にいつも手話通訳者がいるわけではないし、聴者と同じように、ろう者も、何かのついでに役所に寄ろうと思われたりすると思うんです。「手話通訳者がいないから」という理由で、行動が制限されてしまう現実もまだまだあります。そんな時、私たちのような遠隔の手話通訳者が待機していることで、ろう者が好きな時に自由に用事を済ませることができる。そのお手伝いが少しでもできれば、とてもうれしいです。実際、呼び出しがかかってタブレットに顔が映ると、私を見たろう者が「あっ! 通訳者だ」って安心した表情に変わる時もあります。ミライロ・コネクトでの仕事を通して、ろう者の生活が自由に広がっていくのを感じています。

――和氣さんにとっては、それがやりがいですか?

和氣
ろう者から教わった大切な言語を使って、ろう者のお役に立てているのであれば、こんなにうれしいことはありません。また、それだけではなく、沢山の手話通訳者と出会えたこともやりがいにつながっています。ミライロ・コネクトで働くようになった2年間で、何十人もの手話通訳者と出会いました。皆さん一生懸命勉強されていて、手話と向き合っておられる魅力的な方々です。その姿に敬意を覚えますし、同志がこんなにもいたんだなと感動しますね。

――手話通訳者という存在は絶対的に必要なものなのに、待遇面でそれを本業にするのがなかなか難しいというお話も耳にします。そんな状況の中、ミライロ・コネクトでの仕事は地方に住む手話通訳者にひとつの可能性を提示するものかもしれません。

和氣
そうなればうれしいです。全国に沢山いる手話通訳者にはやはり長く活躍してもらいたいですし、遠隔での通訳がその一助になればいいなと。一人ひとりの手話通訳者が長くかかって身につけた技術や、ろう文化・ろう者への思いは、本当に貴重な財産だと思います。

――最後に、和氣さんの手話への思いを聞かせていただけますか?

和氣
手話についてお話しすると、いつも「ある光景」を思い出すんです。それは私がまだ子どもだった頃のことで、当時、近鉄京都線の駅裏に住んでいました。駅を利用する人たちが家から見えるような環境だったんです。多くの乗降客に混じって、いつも怖い顔をして通り過ぎるおじさんがいました。その怒ったような表情がとても印象的な人でした。

その後、大人になった私は、10数年後、京都の手話サークルでそのおじさんと再会しました。その方はなんと、ろう者だったんです。とはいえ、向こうは私のことなんて認識していません。「子どもの頃によく見かけていた、怖い顔のおじさんだ!」と、緊張しながらつたない手話で話しかけてみました。すると、そのおじさんは、とても明るくて冗談を言う、気の良い人だったんです。怖い人ではなかった!!のです。なんていうか、自分の言語である手話で話している時のおじさんが、本当のおじさんなのかもしれない。手話ってすごいな!と強く感じた瞬間でした。ろう者にとって、手話が本当に大切な言語であることを感じたこの日の出来事を、私は生涯忘れることはありません。だから私は、手話をこれからも大切にしていきたいと思っています。ミライロで遠隔通訳に携わらせてもらっていることと、これまで同様、地域で身近なろう者に寄り添っていくこと。この2つをこれからも大事にして過ごしていきたいと思っています。

インタビューを終えて


 これまでの自分と手話を振り返る、貴重な機会をいただきありがとうございました。
 ミライロでは、遠隔通訳だけではなく、「耳が聞こえない、聞こえづらい」方々が社会で活動するためのさまざまな事業のお手伝いをさせていただいています。遠く雪の残る山々を眺めながら、小さな田舎の一室からではありますが、社会とつながってお仕事させていただけることをありがたく思っています。

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